1760年ごろ、大きな塩田が増え、塩を作り過ぎたため、塩の値段が下がり、製塩関係者はひどい不況[ふきょう]に苦しむことになりました。また、砂に塩がつきにくく、生産費が多くかかる冬の間も生産を行っていたことも不況の原因の1つです。
そこで、田中藤六[たなかとうろく]が休浜法[やすみはまほう]「三八替持法[さんぱちかえもちほう」]
を瀬戸内海沿岸の塩の生産地に説いてまわったことで生産は持ち直し、三田尻の塩業はさらに発展していきました。
また、三田尻浜の管理はもとより、周防・長門全体の塩田をまとめる三田尻浜大会所[みたじりはまおおがいしょ]
が置かれるなど、三田尻浜は防長の塩業のなかで重要な位置をしめていました。