保守派が藩の実権をにぎり幕府に従う姿勢を示していた1864年(元治元年)12月、高杉晋作は下関の功山寺[こうざんじ]で兵を挙げ、翌年には保守派を追い出して藩論を変えることに成功しました。藩論を幕府との対決にむかって統一した長州藩は、表向きは幕府に従いつつも、武器を買い入れるなど戦う準備をすすめました。1866年(慶応2年)、それまで対立していた長州、薩摩の両藩はひそかに同盟を結び、同じ年の末には防府の問屋口で藩主の毛利敬親・元徳父子がイギリスのキング海軍提督と会見するなど、長州藩は薩摩藩やイギリスの協力を得ながら幕府と対決する姿勢を強めました。
この長州藩の態度に、幕府は再び兵を送って戦いとなりましたが(第二次長州征伐[だいにじちょうしゅうせいばつ]、山口県では四境戦争[しきょうせんそう]ともいいます)、幕府側として出兵した多くの藩は戦う気がありませんでした。幕府側は各地の戦いで勝つことができず、将軍家茂[いえもち]の病死により戦いを止めました。
次に将軍となった徳川慶喜[とくがわよしのぶ]は幕府を建てなおす改革をすすめましたが、その間にも長州・薩摩両藩は武力で幕府を倒す準備を行っていました。この動きに土佐藩の前の藩主山内豊信[やまのうちとよしげ]のすすめもあって、慶喜はみずから政権を朝廷に返す大政奉還[たいせいほうかん]を行い、ここに江戸幕府は終わりました。
